江別の観光 れんがのまち

直売所 江別「野菜の駅 ふれあいファームしのつ」

0. やきものってなに?

 その定義は、国や文化によってさまざまですが、日本でいうところの「やきもの」とは、天然の土や粉末状にした石などを焼いて作った器の総称として使われています。その種類には、次のようなものがあります。

土器(どき)
陶器(とうき)
炻器(せっき)
磁器(じき)

 また、「セラミックス」という言葉が使われることがありますが、やきものを器に限定せず、より広い意味で使われています。
訳語としては「窯業(ようぎょう)」が当てられており、日本では「無機、非金属を原料とした製造に関する技術または芸術」という概念で、使われています。


1.土器の時代

 本州では、紀元前2~3世紀ごろから縄文式から弥生式へと土器の形態が変わりつつあった頃、北海道では縄文の伝統がそのまま受け継がれ続けました。稲作が主流になっていった本州に対して、狩猟の生活が続いたからです。
 この時代の北海道の文化は、江別を中心に広がっていき、彼らが使っていた土器の名前から、「江別式土器文化」と呼ばれています。
 この「江別式土器」は、一時期東北地方にまで影響を与えましたが、8世紀ごろからは逆に東北の土師器(はじき)が流入し、朝鮮半島から伝わった須恵器(すえき)や陶器などにも押されて、12~3世紀ごろには北海道では土器作りそのものが行われなくなってしまいました。


2. れんがについて

 狩猟から農耕へと人間の生活スタイルが変わってくると、生活するための定住の場、つまり「家」が必要になってきました。
森林の多い地域では、木が家を作る主な材料になりました。山岳地帯では、石を切り出して使いました。
一方で、砂漠地帯などでは材料になるものは「土」や「石ころ」。それらを工夫して積み上げ、家の形にしたのが「れんが」の原形なのです。
最初のころのれんがは、土を固めて天日で干しただけのものでした。
それだけでは、雨の降る地域では水に溶けてしまいますが、砂漠では何の問題もありませんでした。
やがて水に溶けず、より固いれんがにするために、焼成(しょうせい)されるようになりました。焼くことで酸素と土の中の鉄分が結びついて、より固くなるのです。れんがの赤い色は、酸化鉄の色。つまり鉄の錆びた色なのです。

 


3. 江別のれんが

 江別におけるれんが生産の歴史は、明治24年現在の東光町・覚良寺境内で創業した「江別太煉化石工場」だとされています。
当時の北海道は創業の時代で、各地で建造物の素材として、れんがが大量に使われ、れんが工場もたくさんありました。その後、野幌がれんが生産の中心地となって行き、最盛期には14社のれんが工場が軒を連ねていました。
江別産のれんがで建設された代表的な建物には、「北海道庁舎(赤レンガ庁舎)」などがあります。
創業の時代が落ち着いていくとともに、工場も減っていき、現在では道内の生産地は野幌だけになりました。その生産量は今でも日本一を誇っています。
野幌での生産が生き残った背景には次の4つの要因があります。

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4. 江別の陶芸

れんがのまちとしての江別とは別に、多くの陶芸家たちの窯も多数あります。その歴史としては、1962年に北斗窯が閉窯してからしばらく陶業不在の期間が続きましたが、70年代に入ると徐々に活動する窯が現れはじめました。
現在、江別で活動している窯は15窯となっています。「れんがのまち」で取材できた方々を、ここで紹介していきます。

 


(資料画像などを載せていきたいと考えています)
(提供していただける方がいらっしゃいましたら、ご連絡をお待ちしています)